蒲原の宿は、駿河湾の奥まった所にある東海道五十三次の15番目の宿。市町村合併により清水市から静岡市に変わっています。
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の傑作「蒲原 夜之雪」でも有名です。
風光明媚で温暖な気候ゆえに名の知れた人たちの別荘も多く建てられたこの地域で、こんなに深い雪が積もることなどありえないので、よくいわれるように空想か、はたまた天変地異が続いて異常気象を引き起こしたか、想像をかき立てられるミステリーのひとつです。
蒲原宿に残る対照的な旧家
蒲原辺りの旧東海道は歩いて回る人が多く、駐車場もほとんどないので行くのをためらっていましたが、ゴールデンウィーク真っ只中、ようやく重い腰を上げて行ってみることにしました。
醤油屋を生業にして江戸期の町屋造りの形を残す志田邸。
明治時代に作られた町屋を改築し、大正、昭和と時代を先取りして増築を重ねていった五十嵐邸。
それぞれ国登録有形文化財になっているふたつの対照的な旧家は、旧東海道を挟んだ斜め向かいにあります。
陰翳礼讃 江戸安政の志田邸
志田邸が建てられたのは、安政の大地震で被災した翌年(1855年頃)で、蒲原では最古に属する町家建築。(西側は昭和初期に増築)
外観は切妻造平入りの瓦ぶき。街道に面した格子が落ち着いたたたずまいで、間口が狭く奥行きが長い典型的な町屋造りです。(冒頭の写真)
町屋造りは、入り口に入ってすぐが「みせ(店の間)」、次が「中の間」と呼ばれる客間、その奥が生活する部屋という構造になっています。
奥に向かって並ぶ部屋の横には土間が通っており、座敷に上がらずに入り口から裏まで直接出られるようになっていました。
- 入り口横の格子
- 蔀戸(しとみど)
通りに面した商いの部屋「店の間」には、現在でも「蔀戸(しとみど)」という当時の雨戸が現存していていました。
街道の往来の妨げにならないよう内側に三段に分かれた雨戸がついていて、上二段は折りたたんで上から吊るし、下の段は取り外し式になっています。冬場は障子を貼って寒さを防いだそうです。
上の写真正面にあるのは、江戸時代~明治初期の建物に多い箱階段。
引き出しや戸棚がついた階段で、こちらのものは移動も可能。大名行列の際は上から見下ろせないことをアピールするため、移動して隠したそうです。
「店の間」には電気を引いておらず、安政時代のままだそうです。
格子の合間から差し込む光、障子を通して入ってくる光、明り取りの高い天井からの光。これらの間接的で柔らかな光が作る影。
まさに「陰翳礼讃」、つつましやかで研ぎ澄まされた日本の美がここにありました。
- 「中の間」
- 明かり取りの穴
「中の間」とよばれる客間は、お茶などを出してゆっくりしてもらう客のための部屋。
上の写真を見るとわかるように、「店の間」は天井が低くなっています。これは、厨子二階(つしにかい)と呼ばれる中二階があるためだそうです。
明かり取りの窓の下に並ぶ紋付の箱の中には提灯が入っているとのことですが、中を見ることはできませんでした。
またこの間には、江戸時代の基準であった1畳半のフチなし畳が敷かれています。今は一畳、半畳しか製造できないので、入れ替え時に特別に依頼したのだとか。
「奥の間」に続く通り土間の上が明るいので上を見ると、明かり取りの穴が開いていました。最初からこの形であったのかどうかは不明ですが、突然出くわした煙突のような穴に驚きました。
さまざまな展示物がありましたが、特に興味深かったのが本や寺子屋の教科書。博物館クラスの貴重品では?
- 「女大学」1848年
- 色鮮やかな小説?
- 数学?!
存在を知らずに帰ってきてしまいましたが、醤油工場も見学が可能だったようです。
安政地震の少し前に建てられ、地震に耐えて今もそのまま現存しているとても貴重な工場です。これから行かれる方は、ぜひ見せてもらってください。
旧五十嵐邸 明治~大正~昭和の擬洋風建築
江戸の面影を残す志田邸のはす向かいに、鮮やかなペパーミントグリーンに塗られた旧五十嵐邸(旧五十嵐歯科医院)があります。
もともとは明治初期の町家であったものを、大正3年頃歯科医院を開業するにあたって洋風に改築。
大正7年に西側を増築、昭和13~14年ごろ東側を建て増しした、明治・大正・昭和三代の建物です。
外観はガラスを多用した洋風、中は2階の治療室、技工室を除けばほとんどが和風になっています。
- 「店の間」の電話室
- 「中の間」(明治)
- 庭の井戸と蔵
上の電話室があるのは、もともとの町屋の街道に一番近い部屋「店の間」。電話自体は大正8年にひかれたそうです。
次の部屋「中の間」の奥には、生活のための2部屋が続きます。
大正期になって、これら町屋の西側に2部屋を増築。
当初からの町屋造り4部屋の東側にあった通り土間は、今は廊下として昭和時代の建物をつないでいます。
- 2F 廊下のガラス窓
- 2F VIP待合室(大正)
- 2F 診察室(町屋をリノベ)
旧五十嵐邸は、街道沿いの南面だけでなく、中庭に面した北側部分もほとんどガラス窓になっています。だからとても明るい。
雨戸がないのに、この手作りのガラスは台風でも割れたことがないそうです。
絢爛豪華なVIP待合室の主な賓客は、田中光顕。
歴史に疎くても名前くらいは知っている有名人で、新撰組と同じ時代を敵味方として生き、その後偉くなったお方。
そんな方が蒲原に別荘を2つも建てて終の棲家にされており、生前は歯が痛くなると五十嵐歯科医院に通っていたとは驚きの現実です。
さんざん人の死に関わってきた方が、この診察台では”まな板の鯉”。
痛そうな顔をして治療を受けているのを想像してしまいます。
歴史の教科書やテレビの時代劇から、突然身近に降りてこられた伯爵様。五十嵐先生もすごいお医者様だったんですね。
- 左が明治、右が大正の瓦
- 2Fへの階段(昭和)
- 外のお手洗い?
案内の方が、外のトイレ(台所?)の壁について「さやか漆喰という大変めずらしいもの」と説明してくださいました。
単純な格子柄のなまこ壁はよく見かけますが、このような複雑な模様は初めてです。花模様の窓ガラスは、大正時代によく使われていたという”模様入り すりガラス”のようでした。
令和から安政へタイムスリップできる蒲原宿
志田邸が安政の地震で被災して今の姿に再建されたのが、安政2年(1855年)頃。ペリー来航の翌年です。
学校で習った「安政の大獄」は安政5年(1859年)。
そして1868年、江戸は終わり明治を迎えます。
江戸時代の武家政治下での暮らしをそこかしこにとどめ、幕末の動乱を目の当たりにしてきた志田邸。
開国後の華やかな息吹を感じさせながらも、幕末の志士が通ったという五十嵐邸。
少しだけ幕末の頃に思いを馳せた一日でした。
