<道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた…>
――川端康成『伊豆の踊子』の書き出し。
天城山の年間降雨量3,000~4,000mmと全国平均の倍以上。
“私雨”という言葉があるほど雨の多い土地柄。
そのことが天城の自然の表情を豊かにしています。
松本清張『天城越え』の舞台「水生地」
水生地下バス停から「踊子歩道」を天城隧道へと向かいます。
本谷川の沢音を聞きながら進むこと20分もすると水生地(すいしょうち)。
そこには“水が生まれる地”にふさわしい光景が広がっています。
本谷川支流の藤ヶ沢沿いの歩道は、ブナやカツラ、ケヤキ、サワグルミといった木々がうっそうと茂り、沢の水はそのまま掬って飲めそうなほど。
歩道沿いには松本清張の小説『天城越え』の舞台で、物語の鍵になっている氷室や天然氷をつくる溜池の跡があります。
天城山隧道 (旧天城トンネル)
水生地に戻り、河津方面へと歩くと天城山隧道(標高710m)。
日露戦争の始まった明治37年(1904)に完成した全長約445m、幅4.1mの石造りのトンネル。
国内に現存する石造トンネルでは最長で、技術的な完成度が高く国の重要文化財。
天城隧道(天城峠)は分水嶺でもあります。
時代劇にも登場「宗太郎杉林道」
トンネルを抜け、しばらくつづら折れの道を下って行くと沢の音。
先の本谷川はやがて狩野川となり駿河湾へ注ぎますが、こちらの沢は相模灘に注ぐ河津川の支流のひとつ。
沢にかかる小さな橋は「寒天橋」です。
寒天橋を過ぎてまもなく、このコースで最初の滝。
二段になった落差20mの滝の名は二階滝。
二階滝からしばらくすると「踊子歩道」は、山道になり深い谷をジグザクに下ります。
二階滝から40分ほど下ると、小さなワサビ田が点在し、その近くに河津川上流部の岩盤の上を滑り落ちる平滑の滝が現れます。
河津川沿いの森を下って行くと、やがて「宗太郎杉林道」と呼ばれる立派な杉並木の道に出ます。
旧下田街道の一部で、路傍には苔むし、風化した石仏や供養碑が点在しており、そのなかには「安永7年(1778)」と刻まれた物も。
河津七滝めぐり
杉並木を抜けてしばらくすると「踊子歩道案内図」という大きな案内板があり、そこから真新しい木道の260段の階段を下ると、やっと河津七滝のひとつ釜滝にたどり着きます。
落差22mの滝ですが、その周りの岩壁と相まって独特な景観をつくっています。
滝壺から舞い上がる飛沫が崖を駆け上がるさまはなかなか壮観。
その岩壁は、溶岩が冷えて固まるときにできる柱状節理。
滝の側の、毛筆で書かれた古い「七滝の特徴」という説明板には、柱状節理の説明が書かれており、昔から地質学的に面白い観光地であったようです。
河津七滝の生い立ちは2万5000年ほど前。
天城峠から南東2kmほどのところに「登り尾(標高1057m)」という天城連山から張り出した尾根と呼んだほうがいい山があります。
その山の南斜面(標高約700m付近)で、噴火が起きました。
「登り尾南火山」です。
急斜面で噴火が起きたために、火山そのものの痕跡は不明瞭だといいますが、注目されるのは、そこから流れ出した溶岩です。
その溶岩流は登り尾の斜面を西南西に1.5kmほど流れ下り河津川に達した後、川沿いに谷を埋めながら2kmほど下りました。
ここの溶岩は玄武岩質で、溶岩の中でも粘度が低く流れやすい性質。
溶岩が冷えて固まった後に、水が流れ長い歳月をかけて侵食され、段差には滝がかかった。
それが約1.5kmの河津七滝の正体です。
また溶岩は冷えて固まるときに方状、板状、柱状などに割れますが、河津七滝はほとんどが柱状節理。
釜滝から川沿いの遊歩道を下って行くと、次がエビ滝。
形がエビの尻尾に似ていることから名付けられたようですが、ちょっとビミョー。
お次のヘビ滝は、滝の周りの柱状節理の模様がヘビのウロコそっくりで名前通り。
さらに下って行くと初景滝。
昔、初景という名前の僧侶が、ここで修行をしていたことが名前の由来。ここには『伊豆の踊子』のブロンズ像が立っており、格好の撮影ポイントになっているようです。
さらに下るとカニ滝。
こちらも柱状節理の模様がカニの甲羅に似ているところから。
出合滝は二筋の渓流が合流するところにある滝で、柱状節理の美しさが際立ちます。
そして最後に、落差30m、幅7mの七滝で最大の大滝です。
この滝の河原には温泉が湧き出しており、湯船に浸かりながら、その豪快な瀑布を体感できます(入浴は有料)。
伊豆の火山史では2万5000年前と若いこともあって岩石が新鮮で、柱状節理が明瞭で美しいところが、河津七滝の一番の魅力といっていいでしょう。
