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「蘭字」浮世絵職人が作ったラベル

フェルケール美術館

清水港の散歩の出発点として、何気なく立ち寄ったフェルケール博物館(上の写真)。そこで、こんなに素晴らしい発見があるとは思いもしませんでした。
それが「蘭字」。その素晴らしさを私なりにご紹介したいと思います。

清水港散歩の記事は下記からご覧いただけます。↓

「蘭字」とは

フェルケール博物館で初めて知った「蘭字」。
輸出用のパッケージに貼るラベルですが、なぜ「蘭字」というのか調べてみました。

日本茶は、明治から大正時代にかけて欧米、特にアメリカに向け多く輸出されました。その輸出用茶箱に貼られたラベルを蘭字といいます。

「蘭」は、中国語で「西洋」、「字」は「文字」を意味します。
輸出国に日本茶のイメージをわかりやすく表現するため、産地や種類を絵や欧文とともにデザインしたラベルが考案されたのでしょう。

蘭字は当時の日本の浮世絵の技術を生かし、木版の多色摺りで刷られた図柄には、日本の独自性や生活文化が表現されており、デザイン性においてもすぐれていました。
輸出用という限られた商品用に使用されたため、現存するものは少なく、日本の茶業史はもちろん、グラフィックデザイン史においても貴重なものといえます。

出典:農林水産省ホームページより

博物館には、他にも昔の缶詰の輸出用ラベルなども展示されていましたが、どうやら「蘭字」は、茶箱に貼る ある程度大きなサイズのものだけにしか使われない言葉のようです。

浮世絵職人による「蘭字」は、日本のグラフィックデザインの先駆けともいえるもので、初期のアール・ヌーボー風のラベルは、今でも紅茶の缶などに使われていてもおかしくないほど。
下の写真の「TOGO」は、世界的にも有名だった東郷平八郎元帥でしょう。
「FUKUSUKE」ほかネーミングに噴き出しそうになったものも。
当時の世相やデザインの流行が反映されていて、たいへん興味深かったです。
また、行き先の地名や輸入元名が記載されていたりして、船で運ばれる風景が目に浮かぶようでした。
行き先でわかったのは、ニューヨーク、ネブラスカ、インディアナ、カンザス、サンフランシスコ、モントリオールなどでした。

時代に翻弄されたラベル

フェルケール博物館に展示されている「蘭字」の一部

明治39年(1906)、清水港から米国にお茶の直輸出を開始、大正7年(1918)には、清水港からのお茶の輸出量は全国の8割を占めるまでになりました。
第一次大戦の最中も、着々とお茶を輸出し続けたのです。

そして第二次大戦の前後から、それまで主に欧米へ輸出されていたお茶の輸出先は、中東やアフリカ地域へと変わって行きました。
「蘭字」も木版画からオフセット印刷に変わり、アラビア語やフランス語で作られるようになりました。

戦後まだ占領下にあった日本で、制限つき貿易が再開されたのは 昭和22年(1947)8月。戦後初輸出のミカン缶詰をを積んだ英国船が清水港を出航します。
次第に輸出が再開されて行きますが、そのラベルには、時代を反映するように「OCCUPIED=占領下」という文字が印刷されました。

輸出用茶箱

フェルケール博物館所蔵 輸出用の茶箱

往時をしのばせる輸出用の茶箱も展示されていました。
初期の茶箱の内部は鉛板張りで、茶箱絵を貼ってからゴザのようなもので包み、籐紐で縛っていました。
そのうち内部はブリキ板張りになり、ゴザのようなもので包んで籐紐で縛ってから蘭字が貼られました。
戦後は輸出先が中東やアフリカ諸国に移行。箱はベニア板箱になり、「蘭字」も印刷したものが使われるようになったそうです。

上の写真右側のサンフランシスコ行きの木箱は『MADE IN OCCUPIED JAPAN』。占領下の制限付き輸出品です。

左側の「CHATEAU DU JAPON(日本の城)」の箱の横に「GUN POWDER」という文字を見つけ、火薬?!と思って調べたら、小さく玉状に丸まっている茶葉のことで、火薬の粒に似ていることから名づけられた高級茶だそうです。

以上、一点一点ご紹介したいのはやまやまですが、著作権の関係もあると思いますので、ぜひ博物館でたくさんの「蘭字」を直接ご覧になってください。

参考:フェルケール博物館展示、缶詰博物館展示、時代を彩るグラフィックデザイン パンフレット

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たぬこ
たぬこ
インターネット黎明期よりずっとネット関係の仕事をしていましたが、その後ECメインに。2018年までの13年間オーガニックコットン衣料の販売をしていました。現在はTAOのライター兼管理をしている主婦(仮の姿?)。ちなみに写真は大昔のヤツです。

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