だんだん私のシカゴの旅が、初心者建築ツアーみたいになってきてしまいました。
街そのものが建築博物館といわれるシカゴだから、それも当然。
涼しいカフェでお茶する事すら忘れしまうほどでした。
間違いがあったらお手数ですがご指摘いただけると嬉しいです。
目次
シカゴ文化センター Chicago Cultural Center
屋外Jazzフェスが暑くて暑くて、とにかく建物の中に入ろうと飛び込んだのがミレニアムパークの目の前にあるシカゴ文化センター。
もともと図書館だった建物が、現在は市営のコミュニティセンターになっていて、観光案内所であると共に各種文化的催しに使われています。
ここの目玉は”ドーム”だという前知識だけはあったので、見つけたドームを撮影して悦に入っていたら、後でドームは2つあると知って愕然。
私が見たのはステンドグラスドームで、有名なのは世界最大のティファニードームの方でした。
しかしステンドグラスドームも荘厳で圧倒的な雰囲気を持つ素晴らしさで、これ以上のものがもう一つあるとは何たる力なのかと言葉を失ってしまいます。
- エントランス
- 銃持込禁止(逆に怖い)
- Grand Army of the Republic Memorial Hall
- 手前の天井はモザイクタイル
- 「青海波」に似た模様
- 重厚な階段
- ステンドグラス ドーム
- ドーム柄拡大
- 手すりの透かしが映えるシンメトリックな階段
ダウンタウンを歩く
シカゴ美術館 The Art Institute of Chicago
ミレニアムパークのすぐ隣にあるアメリカの三大美術館のひとつ。
三越風のライオンがいるのをチェックしただけでした・・・。
University Club of Chicago
シカゴ美術館の斜め前にある威圧感バリバリのビル。
ハーバード、エール、プリンストン大学の卒業生達による社交クラブだそうです。いかにもエリートによるエリートのための建物ですが、1階はカバン屋さんでした。
ルート66の看板(U.S. Route 66)
熟年層の憧れ、ルート66!
ルート66は、起点のシカゴと終点のロサンゼルスを結ぶ道路で、1926年から1985年まで国道66号線として登録されていました。
北米大陸をドーンと3,940 km横断し、”メインストリート・オブ・アメリカ”、または”マザーロード”と呼ばれました。
「ルート66」という往年のスイングジャズの名曲があります。
「西にドライブするならルート66っきゃないぜ」みたいな歌いだしで、シカゴ、ロサンゼルス、ミズーリ、オクラホマ、、通過する地名が次々に登場して、何かすごくカッコ良く思えたのです。
こういう曲が、広大なアメリカへの郷愁にも近い憧れを、私に延々刷り込んで来たのでしょう。他にもサイモン&ガーファンクルの「アメリカ」とか。(古っ)
シカゴ美術館の前の「起点(BEGIN)」を表わす看板、かなり悲惨な状態でした。
シカゴ交響楽団シンフォニーセンター Symphony Center
ルート66の看板がある E.Adams St.を西に少し歩くと、「Chicago Symphony Orchestra」という文字を見つけました!
私だって名前くらいは知っている世界的オーケストラの本拠地!
ホール正面はシカゴ美術館の前。私たちが通りかかった裏口?には「The Symphony Store」というギフトショップがありました。
が、残念ながら日曜日・月曜日はクローズでした。
機会があれば、ぜひこのホールで演奏を聞きたいものです。
CTA高架鉄道 ”Loop”がある風景
私の中では、シカゴといえば”Loop”。
一昨日の雨の夜ちょこっと乗車したのですが、慌しくてゆっくり見られませんでした。この日やっと”Loop”をちゃんと見ることができました。
老朽化が進み、こういうノスタルジックな風景も次々になくなりつつあります。
少しだけも今のうちに見ることができて本当に良かった。
マグニフィセント・マイル ~ ビーチを見ながらレイクショア・ドライブ
帰りはミシガン通りをまっすぐ北上し、魅惑のマグニフィセント・マイルを通ってレイクショア・ドライブに出ました。
アメリカの道路は右側通行なので、帰りは湖が良く見えます。
途中でビーチに寄ってミシガン湖の水に触れてみたかったのですが、ビーチ沿いの駐車場はどこも満車、あきらめて帰ることにしました。
でも、海のようなミシガン湖沿いをドライブできて大満足!
帰りのドライブを簡単に倍速動画にしましたので見てくださいね。
Lou Malnati’s Pizzeria ディープディッシュピザ
「Giordano’s」と並んで有名なシカゴピザ屋さん。
レストランで食べる店(Dine-in)と、持ち帰り&デリバリーの店(Carryout & Delivery Only)がシカゴエリアに53店もあるそうです。
途中でネット予約して持ち帰り、家でゆっくりいただきました。
やっとありつけた”The シカゴピザ”!
スモールサイズだったのでイメージしていたよりも高さが低めでしたが、それでも二人で一度に食べきれないボリューム!
思い出すとまた食べたくなるくらい美味しかったです。
シカゴが建築の都になったわけをまとめてみた
シカゴが現在のような建築の街になったもっとも大きな理由は、1871年(明治4年)のシカゴ大火です。
2~3日のうちに街の約3分の2が焼き尽くされたといいます。
その復興に向けて空前の建築ブームが巻き起こり、多くの建築家が参加。
ルイス・サリヴァンもその一人でした。
1887年にウィスコンシンからシカゴに移ってきたフランク・ロイド・ライトの生涯の師匠です。
またシカゴの人口が拡大を続け、物流の要所として交通が発展し、建物の需要が急増したという背景もありました。
また、1893年(明治26年)シカゴで開かれた万国博覧会では、当時からシカゴで大きな建築設計事務所を営んでいたダニエル・バーナムが会場の統括を任されました。
バーナムは、シカゴユニオン駅、シカゴ美術館をはじめ古典的なボザール様式を得意とする建築家で、万博会場は威風堂々とした白い建物で埋め尽くされていたため”ホワイト・シティ”と呼ばれたそうです。
シカゴ万博の成功の後、新古典主義的な建物が全米を席巻していくことになります。
そして欠かすことができないのがモダニズム建築の巨匠といわれるミース・ファン・デル・ローエ。
彼はドイツの美術・建築学校「バウハウス」の最後の校長を務めていましたが、1933年(昭和8年)にナチスによって閉鎖された後アメリカに亡命。その後シカゴにあるイリノイ工科大学の前身アーマー大学に招聘され、1940年に新しくイリノイ工科大学となった大学の建物を設計し、建築学部長を努めました。
様式を排した鉄骨ガラス張りビルの歴史の始まりです。
こうして様式美を誇る建物と現代的な超高層ビルの対比が美しい街シカゴが育まれていきました。
参考: 超高層ビル草創の歴史、様式美からインターナショナル・スタイルまでー建築史家・倉方俊輔さんが語るシカゴ(後編)
2018年シカゴの旅、もう少し続きます。
